Monday, September 5, 2016

「今こそ自衛隊の大改革を急ぐべきだ」

このところ、尖閣諸島周辺の接続水域で、複数の中国海警船舶(外観上武器を搭載している船舶を含む)や、おびただしい数の中国漁船が確認されている。

尖閣を虎視眈々と狙う中国との緊張が極めて高い中、櫻井よしこ氏が産経新聞で以下の記事を書いている。日本人一人一人が考えるべき、非常に重要な問題だ。(全文転載)。


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櫻井よしこ 美しき勁き国へ  産経新聞 2016年9月5日(木)朝刊

自衛戦争さえ認めぬ男性3割、女性5割超…こんな状況で自衛隊が第1列島線を守き切ることができようか?

戦後、日本の安全はアメリカが守ってきた。どこから見ても極めて奇妙な他国依存の安全保障環境を日本国民は空気のように当然視してきた。

 しかし、アメリカは中国の尋常ならざる軍拡に対応すべく国防戦略を根本的に見直している。結果、日本は核兵器を除く分野で国土防衛のほとんど全てを自力で行わなければならなくなっている。戦後初めての局面だ。

 この大変化に対応できなければ日本は生き残れないが、わが国はまだ対応できていない。これでどうして日本国と国民を守り切れるのか。政府中枢の、とりわけ国防の責任者は眠れぬ夜を過ごしているのではないかとさえ思う。

  戦後最大の危機である安全保障環境の変化に警告を発してきたのは日本戦略研究フォーラム政策提言委員で元陸上自衛隊西部方面総監の用田和仁氏らである。氏 は米軍の前方展開を阻止するための中国のA2AD(接近阻止・領域拒否)戦略に対して、アメリカが後退し続けていると指摘する。

 従来の日本は、中国が第1列島線に進出するとき、いち早く米空母が来援し、米軍が対中国戦で主導権をとり、米軍が中国本土を叩くことを前提に作戦を立てていた。それが米戦略のエアシーバトル(ASB)だと捉えていた。

 ASBはアメリカの核抑止力が有効であることを前提に、通常戦力による軍事バランスを維持して紛争を抑止し、長期戦で中国の国力を疲弊させ、終戦に導く戦略だ。

 一方、中国のそれはShort Sharp War、短期・高強度戦法と呼ばれる。核以外の全ての力を集中させて短期決戦の局地戦で勝つという考えだ。

 現在の米軍の作戦では、中国にミサイル発射の兆候が確認されれば、空母も海・空軍も第2列島線の東側に退き、眼前の敵には日本が立ち向かう構図である。

 であれば、日本の防衛の根本的見直しが必要なのは明らかだ。自衛隊は装備も隊員も圧倒的不足の中にある。加えて憲法も自衛隊法も専守防衛の精神にどっぷり浸り、自衛隊の行動も攻撃能力も厳しく制限されているではないか。

 アメリカは第1列島線防御を長期戦で考えるが、最前線に立つ第1列島線の構成国は日本、台湾、フィリピンだ。日本以外の2カ国はもとより、日本に、「長期戦」に耐える力などあるのか。

  週刊誌『AERA』の世論調査では、自衛戦争も認めない日本人は男性で3割、女性で5割以上を占めていた。こんな状況で、厳しい制限下にある自衛隊が第1 列島線を守り切ることなど不可能だ。そのとき、日本国は中国軍に押さえられる。悪夢が現実になるかもしれない局面が見えてきているいま、警鐘を乱打し、国 民に危機を伝えることが政府の役割であろう。

 中国軍の下で日本が何をさせられるかについてはアジアの同朋の悲劇を思い起こすのがよい。かつてモンゴルを占領した中国はモンゴル軍にチベットを 攻めさせた。日本をおさえた段階で、中国は自衛隊を中国の先兵として戦線に強制的に送り出すだろう。悲惨である。国防の危機を前にして戦わない選択肢はな いのである。

 オバマ米政権も日本も手をこまねいた結果、中国は多くの分野で優位性を手にした。2020年の東京オリンピックまでに日中の軍事力の差は1対5に拡大する。孫子の兵法では速やかに戦って勝ち取るべき、中国圧倒的有利の状況が生まれてしまう。

  力をつけた中国が日本を核で恫喝することも十分考えられる。ミサイルなどを大量に撃ち込み、到底防御しきれない状況に日本を追い込む飽和攻撃も懸念されて いる。わが国の弾薬備蓄量の少なさを中国は十分に知っているため、日本の弾が尽きる頃合いを見てさらなる攻撃をかければ、日本は落ちると読んでいるだろ う。

 一旦達成すればどの国も挑戦すらできない一大強国を出現させるのが人工知能とスーパーコンピューターによる「シンギュラリティ(特異点)」である。そこに中国があと数年で到達する可能性を、3期連続世界一の省エネスーパーコンピューターをつくった齋藤元章氏が警告する。

 シンギュラリティとは全人類の頭脳を合わせたのよりも優れた知能を1台のスーパーコンピューターが持つに至る事象を指す。中国が2020年までに それを達成し、世界を支配するかもしれないというのだ。中国よりも早く、わが国がそこに立たなければならず、総力で挑むべき課題はここにもある。いま、国 家としての日本の力があらゆる意味で試されているのだ。

 ただ、同盟国のアメリカが大統領選挙もあり機能停止に陥っている。2人の大統領候 補はTPP(環太平洋戦略的経済連携協定)反対の姿勢を明確にした。中国が係争の海にしたアジア太平洋のルールを、日米両国が先頭に立って確立すべきい ま、よりによって米国がそのルールを放棄しようという。

 国際力学の再編は読みにくいが、日本の役割の重要性は明らかだ。日本の課題は、中国の脅威に侵食されない力と意志を持つことに尽きる。

  そのために、日本が直面する危険な状況をできる限りの情報公開で国民に伝えるのがよい。中国の攻撃力のすさまじい実相を共有できれば、国民は必ず賢く判断 する。東シナ海の中間線上に中国が建設した海洋プラットホーム、東シナ海上空での中国戦闘機による自衛隊機への攻撃的異常接近、尖閣に押し寄せる海上民 兵、日本が成すすべもなくなる飽和攻撃、対日核攻撃の可能性も含めて、危機情報を国民の目から隠すことは、国民の考える力をそぐことである。国民とともに 考える状況を作らなければならない。

 そのうえで、誰よりも一番戦争を回避したいと念じている自衛隊制服組の声に耳を傾けよ。戦争回避のために必要だと、彼らが考える防衛装備と人員を整え、防衛予算を倍増する程の大規模改革を急ぐときだ。

 自民党の歴史的使命は、この大危機の前で、憲法前文と9条2項の改正が日本の運命を決することを国民に誠心誠意説くことであろう。

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Tuesday, February 23, 2016

慰安婦問題に関する日本政府の正論

今月16日、外務省の杉山晋輔外務審議官は、ジュネーブの国連欧州本部で行なわれた女子差別撤廃委員会の対日審査で、慰安婦の強制連行説は「捏造」に基づくもので、20万人という数字は具体的な裏付けはない、また、「性奴隷」という表現は事実に反する、と述べた。日本政府が国連の場で、慰安婦問題の事実関係を初めて明確に説明したのだ。

1993年、政府が慰安婦を強制したという証拠が一つも見つかっていないにも関わらず、無責任にそれを認める河野談話が発表され、以来、日本政府は、この問題について、うやむやな態度を取り続けてきた。元慰安婦を名乗る女性達の証言はつじつまが合わず、日本軍が慰安所の衛生管理などを徹底し慰安婦に対して高額な給料を支払っていたことや、多くは朝鮮人の悪徳ブローカー(女衒・ぜげん)に対する取り締まりが行なわれていたという証拠などがある中、学者や民間団体は、海外に慰安婦問題の真実を知らせなければ、と懸命に草の根活動を続けた。

しかし、「日本政府が強制連行を認めているではないか」と言われてしまい、なかなか取り合ってもらえない。その間にも、「日本軍による20万人性奴隷説」は意図的に、精力的に世界に広められ続けた。今回の外務省代表の説明は、遅すぎるのではあるが、この問題の解決に、極めて重要な一歩といえる。 

以下に、女子差別撤廃委員会での、専門委員と杉山外務審議官のやりとりの要旨を一部紹介する。〔国連人権高等弁務官事務所(要旨)より一部翻訳、産経新聞(要旨訳)・読売新聞(要旨訳)・「慰安婦の真実」国民運動(該当部分全訳と思われる)より一部引用・参照〕

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女子差別撤廃委員会専門委員:慰安婦問題についてだが、人権侵害というものは被害者が納得のいく結果になるまでは終わらない。日本代表には韓国との合意を法的に説明してほしい。どのように実行していくのか。また、どのように日本軍の役割を調査するのか。外国人を含む被害者たちに謝罪し補償するのにどのような段階を踏んでいくのか。

杉山外務審議官:慰安婦問題に関しては、日本、韓国両国の間で、最終的かつ不可逆的に解決されることが確認された。日本政府は、日韓間で慰安婦問題が政治外交問題化した1990年代初頭以降、慰安婦問題に関する本格的な事実関係調査を行った。日本政府が発見した資料には、軍や官憲によるいわゆる「強制連行」を確認できるものはなかった。 

慰安婦が強制連行されたという見方が広く流布された原因は昭和58年、吉田清治氏(故人)が「私の戦争犯罪」という刊行物の中で、自らが日本軍の命令で韓 国の済州島で大勢の女性狩りをしたという事実を捏造して発表したためだ。この内容は朝日新聞社により事実であるかのように大きく報道され、日本と韓国の世論のみならず国際社会にも大きな影響を与えた。しかし、この書物の内容は複数の研究者により完全に想像の産物だったことがすでに証明されている。朝日新聞も平成26年8月5、6日を含め累次にわたり記事を掲載し、事実関係の誤りを認め、正式に読者に謝罪した。

慰安婦20万人という数字も具体的な裏付けがない。朝日新聞は26年8月5日付の記事で、通常の戦時労働に動員された女子挺身(ていしん)隊と慰安婦を誤って混同したと自ら認めている。 

…今後、韓国政府が元慰安婦の支援を目的とした財団を設立し、日本政府は10億円程度の資金を一括で拠出する。現在、両政府はそれぞれ合意内容を誠実に実行に移すべく取り組んでいる。国際社会は日韓両国の合意を歓迎している。

先の大戦にかかわる賠償や請求権の問題は、サンフランシスコ平和条約、日韓請求権経済協力協定や日中の処理の仕方も含むその他の2国間の条約などによって 誠実に対応してきている。条約の当事者間では、個人の請求権の問題を含めて法的に解決済みというのは、日本政府の一貫した立場だ。にも拘わらず日本政府はアジア女性基金を構築し、我が国の予算からの拠出と一般からの募金によって、一定の活動をした。

女子差別撤廃委員会専門委員:日本代表の慰安婦問題に関する答弁は受け入れられるものではなく、また矛盾するものだ。日本政府は、一方で慰安婦の存在を否定し、また一方で同問題に関する合意を結んでいる。もし日本が慰安婦問題を解決したいのなら、70年にわたって自分たちの立場を認めてもらいたいと待ち続けている全慰安婦に対して、謝罪をするべきではないのか。

杉山外務審議官
:日本と韓国の間で、慰安婦問題は、最終的かつ不可逆的に解決されたと明確に確認された。日本政府が慰安婦問題について歴史の否定をしているとか、何の措置もとっていないという批判は事実に反する。日本政府はその責任を痛切に感じており、誠実に謝罪、後悔の念を表してきた。日本軍が慰安所設立に関わってきたことは、過去に認めている。しかし、慰安婦20万人という数は具体的な証拠がない。繰り返すが、「性奴隷」という表現も事実に反している委員の指摘は、いずれの点においても日本政府として受け入れられるものではなく、残念ながら事実に反することを述べたのは遺憾だ。

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以上であるが、ついでながら言うと、ここで参照した要旨・訳が、それぞれ微妙に異なっていたのが興味深かった。国連人権高等弁務官事務所の掲載する要旨には、上記の二つ目の質問の後半部分、「70年にわたって自分たちの立場を認めてもらいたいと待ち続けている全慰安婦に対して、謝罪をするべきではないのか」の続きに、“An Expert deplored the lack of understanding of gender violence by the delegation...” (専門委員は日本代表のジェンダー暴力に対する理解不足を遺憾に思った…)とある。一方で、「慰安婦の真実」国民運動の掲載している全文訳には、該当箇所にジェンダー暴力云々の記載は見当たらなかった。ここに、「事実関係が何であろうと、女性を慰安婦にすること自体、女性に対する暴力である」と基本的に考えている女子差別撤廃委員会の姿勢が表われているようにみえる。

しかし、「慰安婦問題」は歴史的事実に照らし合わせて検証するべきものだ。「元慰安婦の証言」を何の裏付けもなしに鵜呑みにして、「日本政府が性奴隷にした」などと軽々しく結論づけできるものではない。

杉山外務審議官は、淡々と、毅然と説明・反論していたと思う。日本政府はこの姿勢を崩さず、広がりすぎてしまった誤解を早急に解くべく、引き続き努力をしてもらいたい。


この記事の英語版(準備中)

Saturday, January 16, 2016

「南京大虐殺」 誰が何人殺されたのか?便衣兵の掃討

「大虐殺」があったというのに増えている南京人口

中国政府は「南京大虐殺」で30万人以上が殺されたと主張しているが、当時南京には30万人も人が住んでいなかったことはよく知られている。また、南京戦前後を比べると、人口も増えていた。この根拠となるのは、16人の西洋人からなる南京安全区国際委員会(以下、安全区委員会)の記録や、アメリカ人教授の人口調査だ。

竹本忠雄氏、大原康男氏によると、南京の安全区委員会委員長ジョン・H・D・ラーベ氏は、南京戦が始まった12月10日付日記に、安全区の人口を20万と記している。その後、日本軍による占領が続くが、南京安全区国際委員会(安全区委員会)の記録は、12月17日付文書以降、一貫して20万だった。安全委員会は、難民の食糧問題に対処しなければならなかったので、安全区の人口を正確に把握する必要があり、この記録は信頼できるといえる。

さらに、南京戦後、1938年1月の安全区委員会の文書には、安全区の人口は25万人とあった。5万人増えている。この増加は、城内に潜んでいた中国軍将兵とその家族、および一般市民を「平民分離工作」の際に「敵意なし」として登録した分だろうという。その後、2月上旬に、金陵大学教授のルイス・S・C・スマイスは多くの中国人を動員して人口調査を行ない、3月下旬の南京の人口を「25万ないし27万」と推定している。また、3月28日に発足した南京維持政府南京市政公署が登録した住民の数は「27万7千人」である(竹本、大原、2000)。

これらの記録で見る限り、南京戦前の人口は「20万人」、南京戦終結時は「25万人」、その後は「27万人」に増えている。人口が30万減ったとの中国の主張とは真逆の事実である。

人口増加は、日本軍が入ったことにより、治安が良くなったという理由も挙げられる。それを示す写真は、『南京の実相』(2008)などの書籍にも多数紹介されているが、ここでは割愛する。

軍服を脱ぎ捨て市民の格好をしていた便衣兵

人口は増加したが、南京戦は戦争だ。当然死者は出るのであるが、誰が何人殺されたのだろうか。ここで、便衣兵に触れる必要がある。

日本軍は、軍事行動の一環として、中国軍敗残兵、便衣兵を掃討、殺害した。日本「南京」学会理事の冨澤繁信氏によると、中国の防衛司令官唐生智が1937年12月12日、降伏せずに南京を放棄すると、南京の城門、城壁を守備していた中国軍は、各方面に敗走していった。城外へ逃げた者もいれば、一般市民の住む安全地帯に逃げ込み潜伏した者もいた。厄介なことに、中国兵は誰でも便衣(平民服)を持っており、状況が不利になると便衣に着替えて一般市民になりすまし、時期を見ては戦闘行為をした。安全地帯に逃げ込んだ敗残兵も市民になりすました。

冨澤氏によると、日本軍は城外と城内(安全地帯)の両方で掃討(占領地の治安を確保するため降伏しない敵兵を発見し逮捕・拘束すること)したが、城内では主に三回に分けてこれを行なった。次のようにまとめられる。

城内(安全地帯)での日本軍による中国軍敗残兵・便衣兵の掃討

日本軍部隊
掃討の期間
捕捉、銃殺、収容した中国軍敗残兵・便衣兵の数
備考
第七聯隊
19371214,15,16
6,670人(銃殺)
隠匿武器も押収

19371222
160人(処分)

第三十八聯隊
19371224日~193815
2,000人(捕捉し収容)
「良民証」付与の過程で
天谷支隊
19382
500人(捕捉)
城内外で。負傷兵は捕虜とした
第二十聯隊
19371213
200人(銃殺)
市民に懇請され偶発的に
合計

9,530

 出典:冨澤繁信、『南京事件の核心~データベースによる事件の解明』(2007年)より要約、74~76頁、136頁。


この日本側文献データによると、安全地帯では、捕捉された敗残兵・便衣兵は、殺害、収容、あるいは、捕虜にされ、少なくとも約7,000人は殺害されている

冨澤氏は多くの文献を調べているが、中には、未確認の数字や、大雑把な数を載せているものもあるという。一応の目安として集計すれば、日本軍により、城外と安全地帯の両方で捕捉された敗残兵・便衣兵・捕虜の数は、約37,000となる、としている(冨澤、2007)。

便衣兵は法的に保護を受けられない不法戦闘員

ちなみに、便衣兵の法的立場について触れるが、東中野氏によると、当時の現行法はハーグ陸戦法規で、「交戦者の資格」として四条件を挙げ、これらを満たす者は法に守られていた。つまり、交戦者(戦闘員)は、軍服を着て、武器を見せて、組織的作戦について初めて合法戦闘員とみなされ、敵の手に落ちても捕虜として保護を与えられるが、これらの条件を満たさない不法戦闘員は、この保護を享受できないというわけだ。市民になりすまし、武器を隠し持つ便衣兵は不法戦闘員で、保護は受けられないことになる。更に、南京の城内で、日本軍に降伏した中国兵はいなかったという。南京陥落の1937年12月13日から、東京裁判が終わった1948年12月までの11年間、誰も、日本軍がハーグ陸戦法規を犯して捕虜を殺害したと告発しなかった、と(東中野、2005、2006)。

日中合同の「平民分離工作」で兵士と市民を分離

ところで、竹本・大原両氏によると、掃討作戦後も、安全区に中国人将兵が多数潜伏していると予想されたので、日中合同の委員会が発足し、「平民分離工作」が実施された。これは、安全区に居住する青壮年の男子を対象として、体格・服装・言語の違い(中国では地方ごとに言語が大きく異なり、出身地の違う者同士では言葉が全く通じなかった)などを目安にして、兵士と市民を分離するものだった。その結果、査問委員会は、婦女子、老人、子供を除く成年男子16万人に「居住証明書」を交付し、中国軍将兵約2千人を逮捕して、日本軍に引き渡したのだ。また、日本軍は、掃討作戦を開始する際、担当する部隊に対し、「外国権益保護」「略奪・放火の厳罰」「青壮年の男子は敗残兵の恐れがあるので、逮捕・監禁する」とともに、「それ以外の敵意のない市民は寛容の心をもって接する」ことを命じている(竹本、大原、2000)。

勿論、巻き添えを食って、不幸にも殺されてしまった市民もいるはずだ。しかし、上記の人口増加、平民分離工作や、軍の命令を合わせて考えると、これらは、日本軍が無差別に市民を大虐殺したという主張とは相反する事実である。


【参考文献】

竹本忠雄、大原康男、『再審「南京大虐殺」~世界に訴える日本の冤罪』、2000年
冨澤繁信、『南京事件の核心~データベースによる事件の解明』、2007年
東中野修道、『南京事件―国民党極秘文書から読み解く』、2006年
Higashinakano, Shudo. The Nanking Massacre: Fact Versus Fiction. 2005.
http://sdh-fact.com/CL02_1/9_S4.pdf


Saturday, January 9, 2016

「南京大虐殺」 プロパガンダ(1)

不透明なユネスコ記憶遺産登録

去年10月に「南京大虐殺」資料がユネスコ世界記憶遺産に登録された。南京陥落に関する史実を知る者にとっては唖然とするものであったが、これもまた、歴史の歪曲が利用され「真実」として世界に広められる一例となった。中国側の登録推薦状は次のようにある。

「日本軍は南京で6週間に亘って大虐殺を行なった。それは、中国の人々、とりわけ南京市民に前代未聞の衝撃を与え、今日までトラウマとなる記憶である。極東国際軍事裁判はその判決文で、日本軍によって20万人以上の中国人が殺され、2万人の女性がレイプ、または集団レイプされたと確認している… 南京軍事法廷は、『少なくとも30万人の中国人が殺された』と結論付けている。」

中国側からユネスコに提出された数々の資料は非公開で審査され、関係国である日本は資料を検証することも出来ず、一方的な中国の申請に基づき登録された。ユネスコのホームページには、登録された記憶遺産それぞれの紹介があり、その多くは資料の写真も見ることができるが、「南京大虐殺」のページには、まだ資料の写真が一枚もアップロードされていない。

「南京大虐殺」は、様々な側面から検証することが出来るのだが、ここでは、まず、それが「プロパガンダ」として始まったということを、様々な研究を参照して、一部おさらいしたい。

欧米人を利用してプロパガンダを広めた中国国民党の国際宣伝処

そもそも、「南京大虐殺」は日中戦争当時から、蒋介石の日本軍に対する情報戦略の主部として、アメリカを始め、海外でも精力的に宣伝されていた。中国国民党中央宣伝部の資料を研究した東中野修道氏によると、国民党は当初から軍事的に劣勢であったため、1937年12月13日の南京陥落の直前から宣伝(プロパガンダ)戦に総力を挙げていた。「現代の戦争は武力を用いることを除けば宣伝もまた勝敗を決する一つの要因である」と考えていた中央宣伝部は、宣伝戦で日本を貶め、国際的に日本を孤立させるため、日本軍を非難する材料を探していたという。国民党は、中央宣伝部の第五部を国際宣伝処に改組し、本格的な活動を展開した。


「党中央宣伝部国際宣伝処工作概要 一九三八年~一九四一年四月
国際宣伝処の組織図が示してある。左端には、国外の付属機関として「香港駐在事務所」「ロンドン駐在事務所」「ニューヨーク駐在事務所」が存在していたことが分かる。東中野氏は台湾の国民党党史館でこの極秘文書を発掘し、検証した。
出典:東中野修道『南京事件―国民党極秘文書から読み解く』(2006年)16


宣伝部の1938年1月の『宣伝工作概要(口頭報告)』には、次のようにある。

「国際宣伝は、各種の言語、例えば英語、フランス語、ロシア語で宣伝通信を編集するほか...パンフレット71種を編集発刊している。特に宣伝活動と敵対宣伝を重視した。宣伝活動について、国際諸団体を引率し、国民外交を策動し、各新聞記者と連絡して、彼らを使って抗戦宣伝とすることは、すべてスムーズに進行している...」

つまり、中央宣伝部は、自らを表に出さず、キリスト教団体、国際友人、新聞記者などを動かし宣伝させていたのだ。そして、敵(日本)の軍閥が残酷であることを幅広く宣伝し、日本人自身も日本を嫌悪し精神的に敗北していくことを狙った。中央宣伝部副部長の董顕光は、その「自伝」に、最後まで南京に残った外国人記者との関係は、「公式なものを離れて、純粋な友人関係となった」と回想している(東中野修道、『南京事件―国民党極秘文書から読み解く』、2006年)。

「南京大虐殺」第一報の裏には国民党顧問のアメリカ人

南京陥落後、現場に残っていた欧米の記者はわずか5名だったという。竹本忠雄氏、大原康男氏によると、そのうちの一人、ニューヨークタイムズのティルマン・ダーディン記者は、12月15日(陥落後三日目)に南京を去り、12月18日付で「拡大した民間人の殺害」を報道したが、この記事は伝聞であった。それは、南京大学のマイナー・S・ベイツ教授の作成したメモに基づいて書いてあったという(竹本忠雄、大原康男、『再審「南京大虐殺」~世界に訴える日本の冤罪』、2000年)。



出典:東中野修道、『南京事件―国民党
極秘文書から読み解く』(2006年)118頁
ベイツ教授が上海から「諸友宛て」に送ったという、1938年4月12日付の手紙には次のようにある。

「その本には、12月15日に南京を離れようとしていた様々な特派員に利用してもらおうと、私が同日準備した声明が掲載されています」

東中野氏は、「特派員」とはダーディン記者や、シカゴ・デイリー・ニュースのアーチボールド・スティール記者を含む5人の欧米人記者で、「その本」とは宣伝本と判明した『戦争とは何か』である、としている。ベイツ教授は国際委員会の有力なメンバーで、宣教師でもあったが、エール大学所蔵の南京関係文書の中から見つかった新聞記事には、彼の顔写真の下に、「南京大学歴史学教授にして、中華民国政府顧問のマイナー・サール・ベイツ博士」とあった。ベイツ教授は中国政府と深い関わりがあったのだ(東中野修道、『南京事件―国民党極秘文書から読み解く』、2006年)。

この、「南京大虐殺」を世界に広く知らせることとなった『戦争とは何か』(1938年)を編集したマンチェスター・ガーディアンのハロルド・ティンパーリ記者も、国民党の顧問であったことが分かっている。国際宣伝処処長の曽虚白の自伝『曽虚白自伝』には、次のようにある。

「ティンパーリは都合のよいことに、我々が上海で抗日国際宣伝を展開していた時に上海の『抗戦委員会』に参加していた3人の重要人物のうちの一人であった...我々は目下の国際宣伝においては中国人は絶対に顔を出すべきではなく、我々の抗戦の深層と対策を理解する国際友人を探して我々の代弁者になってもらわねばならないと決定した。ティンパーリは理想的人選であった。かくして我々は手始めに、金を使ってティンパーリ本人とティンパーリ経由でスマイスに依頼して、日本軍の南京大虐殺の目撃記録として二冊の本を書いてもらい、印刷して発行することを決定した...このあとティンパーリはその通りにやり...二つの書物は売れ行きの良い書物となり宣伝の目的を達した。」(北村稔~櫻井よしこ、『日本よ「歴史力」を磨け』、2010年、の中で引用)。東中野氏によると、この著書には、その後、ベイツ教授の書いた部分も発見された。





極秘文書の中の「外事課工作概況」
中央宣伝部は取材に協力した記者を記録していた。「南京大虐殺」第一報を報じたスティール記者とダーディン記者の名前も含まれている。 
出典:東中野修道、『南京事件―国民党極秘文書から読み解く』(2006年)50



この国民党の宣伝本『戦争とは何か』は、他の文献から推察される事象とは大きく異なり、事実に基づいていないのであるが、ベイツ教授は極東国際軍事裁判(東京裁判)で数少ない第三国人証人として、虐殺があったことを証言し、そのために、虐殺はあったと認定され、当時の司令官であった松井・石根被告は有罪となり、絞首刑となった。蒋介石の情報戦略は見事に成功していたのだ(米良浩一、井上雍雄、今森貞夫、『マッカーサーの呪いから目覚めよ日本人!』、2012年)。

当初2万人だった虐殺者数がいつの間にか30万人に

虐殺者数の数についてだが、南京大虐殺が起こっていたとされるまさにその時、1938年2月1日、国際連盟で中国代表の顧維鈞は、欧米の新聞に言及し、「日本軍が南京で虐殺した中国市民の数は2万人と推定」と演説、理事会に必要な措置を取ることを要請していた(日本の前途と歴史教育を考える議員の会、『南京の実相』、2008年)。しかし、1948年の東京裁判で、その数は20万人に跳ね上がり、現在の中国政府は30万人以上を主張している。

ちなみに、当時、国際連盟は、中国政府の訴えに関する決議案は採択したものの、中国の要請にも関わらず、日本に対して何ら具体的な措置は取らなかった(『南京の実相』、2008年)。

以上、様々な研究の一部を紹介したが、「南京大虐殺」は中国国民党が外国人を使って作らせたプロパガンダであることが明らかに示されている。しかし、この「嘘」は、78年経った今も、巧みに利用され、宣伝され、日本を貶め、世界に誤解を与え続けている。ユネスコは、「南京大虐殺」資料を記憶遺産に登録することで、その「嘘」に加担してしまっている。記憶遺産の目的は、人類が長い間記憶して後世に伝える価値がある記録物を残すことだが、意図的に一国を貶めるために捏造された話を遺産として守り続けるなど、人類が恥ずべきことではないだろうか。


【参考文献】

東中野修道、『南京事件―国民党極秘文書から読み解く』、2006年
竹本忠雄、大原康男、『再審「南京大虐殺」~世界に訴える日本の冤罪』、2000年
櫻井よしこ、『日本よ「歴史力」を磨け』、2010年 (北村稔氏との対談)
米良浩一、井上雍雄、今森貞夫、『マッカーサーの呪いから目覚めよ日本人!』、2012年
日本の前途と歴史教育を考える議員の会、『南京の実相』、2008年